リスクは高いが、治療が普及しない精神疾患
アンナ・カルタビアーノ氏は講演の冒頭で、メンタルヘルスの問題が世界中でいかに深刻かを示す統計をいくつか紹介した。米国立精神衛生研究所によれば、精神疾患を抱える人は世界に約7億9200万人もいるという。精神疾患を持つ人はそうでない人に比べて死亡率が高く、寿命が10年以上短くなると予想されている。心の病が原因で亡くなる人の数は年間で約800万人に達する。
だが、精神疾患の治療法は近年あまり進歩が見られないと同氏はいう。薬物療法では、効果を得られない患者も多く、副作用を伴うこともしばしばである。セラピーに通うにしても、専門家が不足しているため、患者は忙しい合間を縫って定期的に遠方の専門医に通わなければならず多大な労力が必要だ。こうした状況から、米国では精神疾患を持つ成人の60%が治療を受けないままだという。そこで昨今、注目を浴びているのがVRを使った治療だ。
精神疾患の治療法に、幼い頃に犬に噛まれたといった、恐怖心や不安を呼び起こす経験をポジティブなものに変えて症状を改善するという手法がある。同氏はこの治療法におけるVRの有効性を次のように説明する。
「患者は症状を引き起こす原因となっている過去をセラピーで語ることで再び経験し、それを自分なりに受け入れることで問題を乗り越えていきます。VRはこの治療の過程で、症状に合わせて精密に制御された『経験』のコンテンツを、患者に何度でも提供できます。」
だが、症状の原因となっているできごとを実際に再びせずにVRで視聴するだけで、治療の効果を得られるのだろうか? 同氏によれば、人間の脳はVRで視聴したコンテンツを「現実」として認識するという。
「VRを使えば安全な場所にいながら、2棟の50階建ての高層ビルの間に架けられた板を渡る体験もできます。被験者はまるで実際に上空でグラグラと揺られているかのように、脈拍が上がり、汗をかくといった反応を示します」
VRで視聴したコンテンツを実際のできごとと認識して受け入れることで、患者は不安や恐怖を克服する
安全で効果的なVR治療を行うために必要なこと
VRを使った治療法は現在、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や不安障害、恐怖症などに用いられており、データを見る限り、その効果には大きな期待ができるという。同氏は重度の閉所恐怖症が一度のVRによる集中治療で劇的に改善した事例が複数あると述べた。また、VRのヘッドセットはスマートフォンより安価なので治療に導入しやすい。
だが、VRによる治療は万能ではない。現状の課題として次のように述べた。
「安全で効果的なVRの治療を提供するには、薬を開発するときと同様に注意深く計画され管理された臨床試験に基づく正確なデータが必要です。この分野のスタートアップの多くは、自社のサービスが科学的な結果に依拠すると主張しますが、だからといって必ずしも信頼に足るデータを採用しているとは限りません。VRは非常に強力なツールです。正しく使えば大きな効果を得られますが、使用方法を間違えば、有害にすらなり得ます」
こうした課題を改善するため、同氏は、世界各国からさまざまな分野の専門家を集めてチームを結成し、VR治療が有効な分野の臨床試験を行い、それに基づいた治療のプロトコルを開発している。いま取り組んでいるのは、不安障害と汚染に関連した強迫性障害の治療プロトコルだ。重要な試験の前に感じるストレスの負担を研究したり、暴露療法を用いた強迫性障害の克服に取り組んだりしている。
最後に「VRによる精神療法の研究を続け、従来の治療法をより効果的で利用しやすく、拡張性の高いものに改善したい」と今後の抱負を述べ、講演を締めくくった。