ヘルスケア分野は新型コロナウイルスのパンデミックで大きく注目されているが、一方でこの分野ではデジタル化や効率化が急速に進んでいる。10月のマンスリーBenkyokaiでは、この新たな分野であるデジタルヘルスケアに着目して投資を行っているVC企業Kicker Venturesの清峰正志氏をお招きした。最初に、ダイナミックに急成長しているデジタルヘルスケアの市場動向について解説してもらった後に、Kicker Venturesの事業について説明していただいた。
デジタルヘルスケアはヘルスケアのゲームを変えた
最近注目するべき投資分野の一つとして、デジタルヘルスケアが挙げられる。ベンチャーキャピタル(VC)業界に約17年間携わっている清峰正志氏もこの分野に着目し、10年前からこの分野への投資を始めている。しかし、清峰氏は「当初は医療機器への投資を行っていましたが、デジタルヘルスケアは医療機器を含めた従来のヘルスケアと比較すると非常に複雑であり、デジタルヘルスケアについて一から学ぶ必要がありました」と語る。
清峰氏は スポーツに例えてその複雑さを解説した。医療機器分野においては、ルール(FDAなど)やプレーヤー(医療機器や医者)、ゴール(安全性と有効性)、設備(ハードウェア)、フィールド(病院)が決まっており、非常にわかりやすくなっている。
他方、デジタルヘルスケアにおいては、プレーヤーやゴールについては様々なオプションが考えられる。例えば、デジタルヘルスケアにおいては、「ゴール」として、安全性や有効性だけでなく、コスト削減やエンゲージメント向上など、医療機器分野よりも多くのことを考える必要がある。また、「設備」としては、ハードウェアだけでなく、ソフトウェアやサービスも、「フィールド」としては、病院やクリニックだけでなく、エンタープライズや自宅も、といったように。このように、プレーヤーやゴール、ルールなどが異なるため、デジタルヘルスケアでは全く違うゲームをプレーすることになる。
デジタルヘルスケアへの投資額はこの10年間で30倍に増加
ヘルスケアといえば、多くの人は病院や製薬、医療機器などを思い浮かべるだろう。しかし、看護師や医師が病院で取得する全てのデータの収集やアプリを介した不整脈のモニタリングもヘルスケアの一部であり、この分野の変革は急速に起こっている。
清峰氏によれば、2020年の時点で米国におけるデジタルヘルスへの投資額は過去10年間で30倍に増加。この額は、医療機器分野への投資額を優に超えバイオファーマ分野への投資額に迫る。2020年の日本国内のベンチャーキャピタル投資総額の約10倍だ。約3年前まではヘルスケアテックに対する投資額はヘルスケア分野への全体の投資額の10%程度に過ぎなかったが、現在では30%以上にまで増加している。
以上のことから、デジタルヘルスケアは大きな注目を集めており、それに伴いまた更なるイノベーションが起きているということは明白だ。も起こっている。
このトレンドに大きく寄与しているのは、IPOで上場するスタートアップ企業の多さと言えるだろう。過去2年半に米国の株式市場に上場されたデジタルヘルスケア関連のベンチャー企業の時価総額の合計は約1,700億ドルであり、それ以前に上場された企業も合わせるとデジタルヘルスケア業界の時価総額は4,000億ドルを超える。これは、3,640億ドルである日本の製薬業界全体の時価総額を大きく上回る。
そしてこの根底にあるのは、米国を含めた多くの国における医療費の上昇と言えるであろう。デジタルヘルスケアでは、患者の安全性や治療の有効性というゴールに加え、ヘルスケアシステムそのものをもっとて機能的にすることにより大幅なコスト削減が期待されている。
米国デジタルヘルスケアを牽引しているのはスタートアップ企業
米国の政府や規制当局は、約25年前からヘルスケアコストの上昇が大きな社会問題になることやデジタルヘルスケアのポテンシャルに気づいており、規制を含めたデジタルヘルスケアの基盤を構築している。例えば、医療機器や医薬品の規制や認可を行っているFDA(アメリカ食品医薬品局)は、デジタルヘルス研究センター(Digital Health Center of Excellence)の設立を行うことにより、デジタルヘルスケアの促進と支援を行っている。これらを通して、米国はデジタルヘルス イノベーションのグローバルリーダーを目指している。
実際に、FDAの認可を得たAI (人工知能)あるいは ML(機械学習)のデバイスの数は、この3〜4年で急増している。2017年におけるFDA認可のAIあるいはMLデバイスの数は26であったが、2020年においてその数は3.8倍増の100に急増した。
興味深いことに、これらの新しいデバイスを開発した企業の多くは、従来のヘルス企業ではなくスタートアップ企業であり、2020年の時点では62%の企業がスタートアップ企業だ。このことから、清峰氏は「米国のデジタルヘルスケアを牽引しているのはスタートアップ企業です」と語る。
ヘルスケアのデジタル化で変化したビジネスモデル
ヘルスケアのデジタル化によりビジネスモデルにも変化が生じている。
従来のヘルスケアでは、医療サービスの提供に対して報酬を支払うFee-for-Service(出来高払制)が採用されている。デジタルヘルスケアでは、サービスを供給する企業がサービス提供の結果の責任を負うValue-Based Care(バリューベース・ケア)が主流となっている。
また、2017年のデジタルスタートアップ企業のビジネスモデルに関する2017年の調査によれば、B2Cの戦略を取ろうとしたスタートアップ企業の61%はB2Bに方針転換せざるを得なかった。その理由として、多くの消費者は医療に多くのお金を費やさない傾向が挙げられた。しかし、その3年後にはオンライン医療サービスのD2C(direct-to-consumer)スタートアップ、ヒムズ・アンド・ハーズ(Hims & Hers)が、ニューヨーク商品取引所に上場するなど、消費者の意識にも変化が見られるようになったと清峰氏は言う。「多くの他の分野ではテクノロジーが革命を起こしていたのに対し、ヘルスケア領域では遅れていましたが、ここに来て、多くの消費者はヘルスケアを変革する新しいテクノロジーに大きな期待を寄せています」と語った。事実、市場のプレーヤー(企業)を見てみると、米国の時価総額上位13社のうち10社がヘルスケアに新たに参入している。その13社の中で、ジョンソン・エンド・ジョンソンとユナイテッドヘルス・グループの2社のみが旧来のヘルスケア企業だ。新しく参入してきた10社の内訳を見てみると、アップル、マイクロソフト、アルファベット、アマゾン、フェイスブック(現メタ・プラットフォームズ)、NVIDIA、JPモルガン・チェースおよびウォルマートであり、興味深いことにこれらは小売や金融、ITなどの企業だ。
具体的な動きとして、例えば、アップルはAppleWatchに関してFDAの認可を取得した。一方で、Amazon、JPモルガン・チェースおよびバークシャーハサウェイの提携により設立された新しいヘルスケア企業は失敗に終わってしまった。しかし、これらの世界的な大企業がヘルスケア市場への参入を試みたことから、この出来事はヘルスケアの市場としてのポテンシャルの大きさや抱えている問題の重大性を世に知らしめることになった。
デジタルヘルスケアに投資を行っているVC企業Kicker Venturesとは
最後に、清峰氏は2021年1月に立ち上げたばかりのKicker Venturesの事業について紹介してくれた。
Kicker Venturesは主に米国のアーリーステージの企業に対し投資を行っているが、その目標は、ただ投資対象となる優れたスタートアップ企業を見つけるということだけではなく、スタートアップ企業や既存の大企業と共ににグローバルヘルスケア企業を創出し、新しいヘルスケアの世界を構築して行くことである。その目標を達成するために取っているいくつかの手段の1つにCo STUDIOおよびkicker ioとの提携がある。
Co STUDIOは日本に拠点があるインキュベーター・オープンイノベーションコミュニティラボであり、新しい企業の創出やコミュニティの構築を行っている。この2年間でCo STUDIOは7つの企業を設立
Co STUDIOの特徴として、ヘルスケアとコミュニティの分野に取り組んでいる点が挙げられる。その理由として、清峰氏は「私たちは、未来のヘルスケアは社会全体を健康にするものだと考えているからです」と語った。また、企業の創出において、独自のインキュベーションだけでなく、日本の製薬会社であったり、神戸市といった企業以外の団体との提携も行っているのもCo STUDIOの特徴の一つである。
一方、kicker ioは、スタートアップ企業のグローバル支援だけでなく、ヘルスケア分野でのグローバル展開を狙っているリミテッド・パートナー(LP)の支援も行なっている。例えば、リミテッド・パートナーの1つである大日本住友製薬は、2032年までにデジタルヘルスケアの売上目標を1,000億円に設定したと発表した。このようなデジタヘルスケアの領域でこのようなの高い売上目標を表明したのは、日本の大手製薬企業としては初めてのことだったのではないだろうか。「つまり我々は、この新たなヘルスケア領域において中心的なプレーヤーに成長しようと情熱を注いでいるパートナー企業と協業し、まさに変革を起こそうとしているのです。」
また、Kicker Venturesは米国の最先端かつ革新的なソリューションを他の国に輸出し、それらをビジネスで活用してもらうことを目的とした、Japan fit(ジャパン フィット)と呼ばれる新しいプログラムを開始した。
最後に、清峰氏は「私が話したことはすべて過去に起こったことです。ヘルスケアプレーヤーから出てくる新しいデータや、ヘルスケア領域における規制やデジタルインフラストラクチャが整うことにより、さらに多くのエキサイティングなことがこれから起こるでしょう。私はVC業界に17年間従事してきていますが、このような勢いで次々とイノベーションが起きるのを見るのは初めてのことで、今後の更なる発展が非常に楽しみである」と語り締め括った。
質疑応答
次に行われた質疑応答では、清峰氏からさらに興味深い話を引き出すことができた。その一部を以下に紹介する。
投資を行っているWoebotとメンタルヘルス分野のデジタルヘルスに関する興味深い点とは?
メンタルヘルスについてはわかっていないことが多数あることから非常にチャレンジングな問題であり、また社会的あるいは文化的に難しい面もあります。そのような問題の一つとして、メンタルケアへのアクセスが挙げられます。つまり、どのように患者がメンタルヘルスに伴う社会的名誉を保ちつつ助けを得られるかということです。
そこで、WoebotはAIセラピストを開発しており、FDAから産後うつ病についての画期的治療の指定を受けました。他にも、彼らは青年期のうつ病や薬物乱用の治療方法の開発にも取り組んでいます。患者は人間との対話は必要なく、AIチャットボットとの対話を通して治療を受けます。通常、患者が人間の医師に心を開くまでに3〜5週間かかります。しかし、患者がAIとチャットしている場合は、自身が他人から評価されていないため、わずか2日で心を開いて感情的な絆を深めます。このことから、Woebot はAIが実際に人間よりもはるかに優れた何かを実行できること、つまり患者とつながることができることを実証しました。
メンタルヘルスを含めた一般的な医療の需要と供給に関して大きな問題があり、例えば、医師の数が不足しています。AIはそれを解決するための優れた方法ですが、人間が行うことをAIに置き換えるだけでは不十分であることもわかり始めています。
私たちは、メンタルヘルスの診断を行う企業にも注目していますが、診断の正確性はまだ低いです。複数の医者が同じ患者の診断を行う場合、30〜60%の確率で異なる診断結果が得られます。つまり、現時点では、メンタルヘルスの病気を診断する客観的な方法はありません。そこで、患者に何が起こっているのかを正確に把握し、患者の疾患のソリューションを開発することを目的として、デジタル表現型の開発に取り組んでいる企業があります。
高齢者介護や認知症に対するデジタルアプローチにはどのようなものがあるのか?
認知症の症状の抑制に取り組んでいるIkumiという日本の企業があります。 これはCo STUDIOが設立した企業の1つで、デジタル音楽療法を提供しています。
アルツハイマー病のような病気には、非常に多くの側面があります。ケアと治療は間違いなく重要ですが、恐らくこれらの点においては、デジタルソリューションは効果的にインパクトを与えることはできないでしょう。デジタルソリューションは、予防の面で大きなインパクトを与えることができると思います。そして、デジタル治療の進化のコンセプトは、薬を高い有効性と非常に高い安全性を備えたアプリに変えるということです。ところが、実際にはアプリ自体は私たちが思っているほど効果的ではないことがわかり始めています。そのため、アプリとサービス、あるいはアプリとその他のソリューションが組み合わせられています。そして、実際に認知症の進行を確実に遅らせる多くの兆候と証拠が得られています。
文化の違いを考慮したデジタルメンタルヘルスケアに関してどのようなアプローチや方法が考えられるのか?
私たちは先述したジャパンフィットを来月から開始します。これは、米国で開発されたソリューションを様々な市場に輸出するものです。当初は、日本でウォルマートと提携して取り組んでいました。ウォルマートは、米国での最初のターゲットとして産後うつ病と青年期のうつ病に注目しました。しかし、日本では医療制度や患者層が異なるため、必ずしもそれが日本にとって適切な応用先であるとは限りませんでした。私たちは、従業員の健康や精神的な健康状態、社会的に孤立した人々、遠隔地に住む高齢者、文化の違いなどをターゲットにするべきと考えました。特に日本では、差別や偏見などの社会的スティグマの問題が重要であるため、私たちはそれに関して理解する必要があります。
このような文化の違いなどを考慮して、ソリューションを日本の市場に適合させる必要があります。そのため、私たちはデザイン思考型アプローチを採用し、ロボットなどが適切に機能する可能性のあるソリューションを特定し、それに関してビジネスモデルを作成し、さらにパートナーシップを作り、どれが適切な初期のアプリケーションになるかを決定しています。
また、デジタルソリューションの優れている点は、拡張性がありかつ簡単に変更できることです。さらに、デジタルソリューションにおいては、スタートアップ企業の負担は最小限に抑えられています。スタートアップ企業が外国市場に参入する際の課題は、彼らがリソースを持っていないことであり、そのため彼らは米国市場にフォーカスせざるを得ません。そこで、私たちのモデルを使用すれば、彼らは専門知識を備えた外部リソースを活用して、様々な市場向けのアプリケーションを作成できます。今後、このプログラムを立ち上げる予定です。
製薬業界における創薬のためのAIに関する最近の動きについて教えてほしい。
AIは、効率化と巨大なデータの高速処理を行ってくれます。したがって、製薬のようなソリューションにAIが採用されることは理にかなっています。現在、多くの製薬会社は製薬プロセスを改善するために、AI医薬品ソリューションに依存しています。このようなAIソリューションでは、従来のサービス課金のビジネスモデルではなく、ロイヤルティモデルが採用されています。つまり、薬の開発が成功した場合、成功報酬をパーセンテージで料金請求します。結果として、AI製薬会社は新しい製薬会社になるという変化が起こりつつあります。また、多くのAI創薬企業は化学に注目しており、臨床試験ではAIが積極的に使われています。